空気と議論など

 石破 茂 です。
 東京五輪・パラリンピックでの贈収賄についての捜査が進み、メディアからは「商業化されたオリンピックの構造的な問題が問われている」風な指摘がなされていますが、正直、何を今更、という気がしてなりません。
 大手新聞社やテレビ局もスポンサーとなったり、放映権を手にしていたところがあるのですから、商業化の一翼を担っていたと言う他はありませんし、彼らに開催に批判的な主張が出来たはずもありません。五輪は「皆が楽しみにしていた」のであり「大きな感動を有り難う」だったのであり、これを批判する立場の者はほとんど「非国民」のような扱い、ほとんど大政翼賛的、ではなかったでしょうか。「復興五輪」と銘打つのなら、なぜ被災地の東北で開催されなかったのかもよくわかりませんが、「何かがおかしい」という声は徹底して無視されたように思います。
 決定した以上、開催都市やその所在国として最低限、テロの発生や感染症の拡大を断固防いで実施するという責任は果たさねばならなかったのですし、それは立派に成し遂げられたのですが、その任に当たった人々の多大の労を多とすることとこれとは別の問題であり、混同してうやむやにしてはなりません。札幌冬季五輪の前に、きちんとこの問題には決着をつけなくてはなりません。「皆一生懸命にやったのだし、終わったことをとやかく言うべきではない」との姿勢は、敗戦後の日本の姿と二重写しになるように思われます。
 すべては空気で決まり、議論を嫌うのは日本の特性なのかもしれませんが、これを今改めなければ必ず同じ轍を踏むことになります。
 お盆中、久しぶりに「日本海軍400時間の証言」(2009年製作・NHKオンデマンドで視聴可能・単行本は新潮社刊)を見直してみたのですが、個の論理や現在の利益が全体の論理や後世の利益に優先し、誰も責任を取ろうとしないままに破局を迎える構図は、今もほとんど変わっていないように思います。

 旧統一教会をめぐる議論も拡散気味で、収斂の方向性が見出せません。自民党として旧統一教会との絶縁を宣言すると仮にしたとしても、それは単に表層的なものに終わるのではないか。「信教の自由」は内心の自由であり憲法上もっとも重きを置かれる価値の一つである以上、信者自身が心からその教義を信じていた場合に、脱会を強制することで得られる保護法益は何であり、その優劣はどのように考えるべきか。「『カルトの自由』はない」と言うのは簡単だが、では「カルト」をどのように定義し、それをどのように規制するのか。
 旧統一教会の教義についての知識は乏しいのですが、巷間言われているように「日本は韓国に対して悪しき存在(エバ)なのだから、正しい韓国(アダム)に対して『貢ぐ』のは当然だ」というのが教義であれば、わが国において「真正保守」を自称する人々が統一教会に賛同的な立場をとってきたのは何故なのか、ここもよく理解が出来ません。宗教法人法の改正も含めて、もう少し良く考えてみたいと思います。
 
 ウクライナ問題につき、ウクライナ人の政治学者であるグレンコ・アンドリー氏の著作、「プーチン幻想」(2019年・PHP選書)、「NATOの教訓」(2021年・同)、「ロシアのウクライナ侵略で問われる日本の覚悟」(最新刊・育鵬社)を通読してみました。部分的な疑問はあるものの、おおむね正鵠を射ているように思われます。どれも容易に入手できますので、ご一読をお勧めいたします。今週直接講演を聞く機会があり、NATOに加盟する際の憲法上の論点についていくつか質問をしてみたのですが、この点ももう少しよく詰めてみたいと思います。
 
 週末は土曜日に福岡、日曜日には東京・有明と溜池山王でパネルディスカッションにパネラーとして参加する予定です。
 台風一過とは言うものの、爽やかな初秋とは程遠い今週の都心でした。急激な豪雨の被害に遭われた方々に、心よりお見舞いを申し上げます。
 皆様ご健勝にてお過ごしくださいませ。

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石破茂
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