さる1月10日に発生した護衛艦「いなづま」の瀬戸内海伊予灘における浅瀬乗り上げ事故に関する報告書が海上幕僚監部より9日に公表されましたが、その概要を読む限り、海上自衛隊内、特に艦艇部門において一体何が起こっているのか、強い危惧を抱かざるを得ません。
艦長(2等海佐41歳)が狭くて混雑する(輻輳している)海域において最大速力を出すよう指示した/出航に際して安全確認を怠った/運航を担当する幹部は海図も十分に確認していなかった/安全面を検討しないままに進路を変更した/レーダーを見ている戦闘指揮所から危険を知らせる情報が艦橋伝令(1等海士19歳)によって伝えられたがこれを復唱せず伝令も確認しなかった/…このような基本的なことが全く行われていないなど本当にあり得るのか、信じられない思いです。
防衛費増額も当然行われなければなりませんが、いくら防衛費を増額し、新兵器を導入してみても、現場がこの状況で本当に戦(いくさ)になるのか。カネさえ積めば防衛力が強化されるものでは決してありません。
この艦の修理には数年を要するとのことですが、実際に有事となれば艦の損傷は当然にあり得ることであって、多くの艦が損傷し修理に数年を要していて、継戦能力はどれほど維持されるのか。
メディアも、事故後数日はこの事故を大きく扱っていましたが、恐るべき原因が明らかになったことを報道するメディアは事故自体の報道の数分の一、中には全く報道しないメディアさえありました。その国における最高の実力組織である軍隊には最高の規律が要求され、ゆえに最高の栄誉が与えられます。しかし「軍隊」ではない自衛隊、あくまで公務員である自衛官には、このような国際常識は適用されていません。以前、最高裁判所を終審とする「自衛隊審判所」を設けなければ規律も維持されず、自衛官の人権も護ることは出来ないのではないか、と主張した時には、「軍法会議の復活を目論んでいる」と散々非難されましたが、このような現実から目を背ける短絡的な思考こそが一番恐ろしいと今も思っています。
かつて福田内閣で防衛大臣を拝命していた時に発生したイージス艦「あたご」の事故の時、昼夜を分かたぬ侃々諤々の大議論の末に改善案を取り纏めましたが、それが完全に風化してしまった現実をまざまざと見せつけられて、言いようのない無力感を覚えています。
以前も本欄に描きましたが、森内閣で防衛庁総括政務次官(今の副大臣)を拝命した時、尊敬する吉原恒雄・拓大教授(故人)を次官室にお招きしてお話を聞いたことがありました。そのとき吉原先生が「あなたは自衛隊を好きですか?」とお訊ねになり、私が「もちろん好きです」と答えたところ、先生は少し悲しそうな顔をされて、「総括政務次官をやめるとき、あなたはきっと自衛隊を嫌いになっているでしょう。良かれと思って指摘をすればするほど疎まれるようになる。残念ながらここはそういう組織なのです」と仰ったことを強烈に覚えています。これは自衛隊に限らず、日本の組織の多くに通底するものなのかもしれませんが、この国の明るい未来のためには、こういった同一性の強い組織の過剰な自己防衛、異論の排除といった体質は、どんなに抵抗があったとしても改めなければならないと思います。独善に陥ることなく、これを貫くことの難しさを改めて痛感させられます。前回の本欄で、陸上自衛隊第八師団長他の幹部を乗せたヘリコプターの墜落事故について記した際、「何故熊本から奄美経由で宮古島まで移動するのに、高遊原分屯基地にある固定翼連絡偵察機を使わなかったのか」との疑問を提起しましたが、師団長と幕僚長は時間と負担軽減のために民航機で移動していたのだそうです。訂正してお詫び致します。
広島サミットを間近に控えて、関心はバイデン米国大統領参加と、サミット後の解散・総選挙の有無に移りつつあるようですが、一体総選挙で何を問うのか、今のところ判然とはしません。故・安倍総理は「危機突破解散」と銘打って解散を断行し、勝利を得て政権基盤を強化しましたが、あの顰に倣うとすれば、どのような論点で国民に信を問うのが国家国民のためになるのか、よく考えるべきだと思います。
「核兵器のない世界」は理想ですが、当面目指すべきは「核戦争のない世界」であり、両者は似て非なるものです。核兵器を放棄したウクライナに対し、米・露・英・仏・中の核保有国がその安全を保障するとしたブダペスト合意が全く履行されず、ウクライナの国土が蹂躙されることとなったのは何故なのか、この検証も責任の追及も曖昧なままです。INF条約なき後の北東アジア地域における核戦力のバランスも議論の核心でしょう。画期的な広島サミットにおいて、このような核心的議論が話し合われることを期待しております。
皆様、ご健勝にてお過ごしくださいませ。