石破 茂 です。
新型コロナウイルスの罹患者で軽症の方々には、新型インフルエンザ治療薬「アビガン」の使用を直ちに認めるべきです。
現在、新型インフルエンザの治療薬として200万人分(新型コロナウイルスに対しては投薬量が異なるため人数はさらに少ないか)の国家備蓄が行われていますが、新型コロナに対しては、①ご本人の希望、②病院の倫理委員会の了承、③治験ではなく観察研究の形式を採る、という形でなければ使えないとするのが政府の立場です(安倍総理答弁)。
②でいう「病院」とは20床以上の病床を必要とし、一般の開業医や診療所は該当しません。「倫理委員会」は現在全国で98委員会ありますが、主に大学病院にしか設置されておらず、設置のためには医学・自然科学・法律学・人文社会科学の有識者、専門家や、患者など一般の立場から意見を述べられる者が女性を含めて5人以上いなければなりませんし、投与対象者一人一人に対して審査がなされ、全会一致が原則とのことです。要件はそれなりにとても理にかなったものですが、そのような委員会がたくさん設置できるとは思われませんし、長大な時間と膨大な手間を擁することになるでしょう。
③でいう「観察研究」とは、新薬が使えるようになる過程としての臨床試験(治験)ではなく、あくまでその前の段階である「研究」を指すものではないかと思われます。
以上から考えるに、いまの政府の立場からすれば、事実上、アビガンを一般に広く使っていただくことは困難になってしまうのではないでしょうか。。
薬機法(医薬品、医療機器等の品質・有効性及び安全性の確保に関する法律)第14条第3項は、「特例承認」として、
「国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがある疾病のまん延その他の健康被害の拡大を防止するため緊急に使用されることが必要な医薬品または医療機器であり、かつ、当該医薬品または医療機器の使用以外に適当な方法がない」場合には、厚生労働大臣は製造販売の承認を与えることができる、と定めます。
「これ以外に適当な方法がない、とは直ちに言えない」として慎重な姿勢を崩さないことも考えられますが、この特例が使えないのなら、新たに立法する他はないように思います。
医療行政や関連法令に通暁していない者がこのような主張をすることは適当ではないのかもしれませんが、リスクを負うことができるのは国民から選挙で選ばれる政治家の立場であり、これがリスクを負いえない官僚や学者と決定的に異なる点です。政治主導の本質はまさしくここにあるのであり、昭和35年に「すべての責任は私にある」と述べて、当時未承認であったポリオワクチンを1343万人分、ソ連から緊急輸入して、小児麻痺から日本の子供たち(その中には私も含まれます)を救った古井喜実厚生大臣の決断に学ぶことは多いと考えます。新型コロナウイルスの感染が拡大し、非常事態宣言が続いている現状を「有事対応」「新型コロナウイルスとの戦争」と表現する向きも多いのですが、事態を真剣かつ深刻にとらえておられることは百も万も承知の上で敢えて申し上げれば、「有事」や「戦争」(国際法上「戦争」は違法とされているので正確には「武力の行使」)という言葉はあくまで「我が国に対する急迫不正の武力攻撃があった際」において使われるものであって、あまり汎用性を持って使ってしまうと、事の本質を見誤るように思います。
戦争においては能力と意思の積である脅威の分析、抑止力の構築等が可能ですが、ウイルスが相手ではそれはできません。
一方で、感染症であれ、武力攻撃であれ、どちらも平素からの準備と、可能な限り正確な数値に基づく現状把握が無ければ、その対応は困難を極めます。
感染症対策は単純化すれば「検査と隔離」であり、「日本では検査件数が少なかったから感染者数も少なく、病院に患者が殺到して医療崩壊を起こすようなことはなかった」、というのは論理が全く逆です。SARSや新型インフルエンザは、幸運なことに日本で大流行することがなかったということもあったでしょうが、新型ウイルス感染症に対する検査体制や人員・設備・備品などの医療体制を十分に構築せず、保健所の予算やそこに働く職員を削減してきたためにこのようなことになったのであって、私も含めて政治の責任は極めて重いことを痛感します。
国家の存立が危機的状況になる武力攻撃事態においても、「体制が整っていないのでそのようなことは起こらない」などと言えるはずはありません。「平素から準備していなければ、本番には対応できない」という危機管理の鉄則を改めて徹底しなければなりません。全国を対象とした緊急事態宣言が一か月程度延長される見込みですが、この宣言の目的はあくまで「感染拡大と医療崩壊の阻止」であり、都道府県知事たちが自主的な判断を行うことに法的根拠を与えるもののはずです。
感染の拡大が止まらない東京の過密地域と、過疎地域を全く同一に取り扱うことに合理性は乏しく、法はそもそもそのようなことを予定してはいません。
あくまでも検査を十分に行った上で、感染者が極めて少なく、クラスターも確認されず、医療体制の整備も進んだ地域においては、考えられる限りの対策を講じ、日にちや人数を厳格に絞った上で、図書館や美術館などの限定的な利用を始めるという選択が知事の判断(併せて議会の承認)においてあってもよいのではないでしょうか。「全国一律」「生命か経済か」のようなオール・オア・ナッシング、もしくは二者択一的な発想だけでこの危機が迅速・的確に乗り切れるとは思いません。
収束に向けて全国が一丸となっている時に何事か、とのご批判を浴びることは十二分に承知しておりますが、科学的に感染状況を可能な限り把握した上での判断の選択肢として申し上げております。状況が把握できないままの対策が当を得たものとなるはずはなく、だからこそ検査体制を早急に整備すべきなのです。
都道府県間の移動制限は憲法の基本的人権の尊重との関係で難しい問題ですが、国民の生命と健康の保持は当然、日本国憲法第13条にいう「公共の福祉」に含まれるのであり、合理的な制限は許されるものと考えます。また、現在否定的に考えられている「企業・事業者に対する補償」は、補償という用語を使うかどうかは別として、憲法第29条に定める「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることが出来る」と関連付けて考えられないか、思案しております。前回ご紹介した岡田晴恵教授の「人類VS感染症」を読むと、人類の歴史がウイルスとの戦いであったことに改めて気付かされます。地球が誕生したのは46億年前、ウイルスの誕生は30億年前、現在の人類の誕生は20万年前のことですから(諸説あり。地球の誕生から現在までを1年365日に換算すると、人類の誕生は12月31日午後11時37分になるとのこと)、我々よりもはるかに長くこの地球において生き抜いてきたウイルスは実に容易ならざる相手です。
東大寺の大仏の建立も、平氏の滅亡も、アステカ文明の終焉も、第一次大戦におけるドイツの敗北と大戦の終結も、すべて感染症と深い関りを持っています。
東京五輪が延期となり、聖火リレーも日本に到着したままその後行われていませんが、そもそも「聖火リレー」はナチス・ドイツの威信を示すためにゲッペルス宣伝相の主導で、1936年のベルリン大会から始まったこと、ナチス式敬礼の原型となったムッソリーニ発案のローマ式敬礼は、握手によってウイルスに感染することを防ぐために考案されたこと、などなど、自分の知らないことが多くあることを改めて認識させられています。オリンピックは「平和の祭典」と礼賛することに異論はありませんが、歴史を見る限り、それは同時に往々にして政治の一つの手段であったことも確かなようです。入学や学年開始を9月とする、という案が急に取沙汰されるようになり、全国知事会の一部をはじめとして賛成の意見が多く聞かれます。
外国の制度と基準を合わせることにより留学等の不都合が解消される、日本中で定着している「年度」との整合を巡って社会が混乱する、など、メリット・デメリットが多く指摘されており、この一つ一つを詳細に検討しなければなりませんし、何よりも教育現場の意見を十分に聴かずに進めるのは、拙速以外の何物でもありません。それでなくてもコロナ禍で混乱している中、論点を詰めないままに「今をおいてない」というような雰囲気に引きずられて、つい先般の大学入試改革の轍を踏むことのないよう、適切な対応がなされることを望みます。先週から、毎週木曜日正午に開催される政策集団「水月会」の総会をウェブ形式としています。当初、やや違和感もあったのですが、いつものみんなで集まって昼食をとりながら、という形式よりも、一人一人の発言を集中して聞くことができ、教育や仕事などをこの方式で行うことの利点を実感した思いがしております。出席者全員が、よく考えられた深い内容の発言をそれぞれにされている様子を見て、本当に意義のある政策集団であることを、改めて有難く思いました。
大型連休に入りました。本来この時期、米国における政府・議会・シンクタンク関係者との議論や講演を行っていたはずだったのですが、当然中止となり、地元にも地方にも出向けず、議員会館と宿舎で過ごす他はありません。
早期の終息を願い、皆様と同じくそのための努力を致しますが、コロナ禍後の日本と世界の在り方を考える時もまた、今をおいて他にありません。
皆様どうかご健勝にてお過ごしくださいませ。