「危機管理に強い」とされていたことが影響しているのか、現内閣に対する支持が低下していますが、危機管理とは平素よりあらゆる事態を想定し、法律や態勢を不断に整備しておかなくてはできないものです。日頃これをせずに、有事や危機になったら見事に対応出来る、などということはあり得ません。政治は魔法でも手品でもないのであり、感染症も、防衛も本質は同じであると、最近つとに思っております。
変異した英国由来の新型コロナウイルスに感染した人が男女三人に出た静岡県では、県知事が「感染拡大緊急警報」を発令し、テレビを中心としたメディアはこれを大きく取り上げて「専門家」が登場して論評、街頭インタビューは市民の「怖い」という声ばかり、これで不安が広がらないはずはありません。世の中はますます萎縮が進んでいくようですが、これが本当に正しい報道の在り方とは私には考えられません。
新型コロナウイルスの流行を軽視するつもりは全くありませんし、献身的な努力をしておられる医療関係者が疲弊の極にあることもよく承知しているつもりです。しかし、
・日本における新型コロナウイルスの流行のデータと、毎年のインフルエンザの流行のデータの比較
・この1年でこのウイルスに関する解明が進み、治療法が相当程度確立したこと、それにより重篤化や死に至る危険性は当初に比べて相当程度減少したこと
・重篤化が顕著にみられるのは自然免疫が低くなっている方(放射線治療を受けるなど)、高血圧、高脂血症、糖尿病などの方
・人口当たりの死亡率はアメリカの30分の1であること
・死亡者数は季節性インフルエンザの半分、ガンの100分の1程度であること
等々の指摘をする医師や学者の出演する場面をほとんど見ないことには強い違和感があります。
少なくともデータは比較の上で出すべきものですし、万が一にも不安を煽ることが視聴率のアップに繋がるなどと考えているなどとは思いませんが、メディアには色々な意見や情報、事実を公平に報道する姿勢を強く望みます。我々が直面するリスクは全て相対的なものです。リスクとは、事故・災害・感染症などの発生する確率と、それによってもたらされる被害の大きさの積であり、それは安全保障に言う「脅威」が、我が国を侵略しようとする相手方の意図と能力の積であることと同じです。
例えば飛行機事故の場合、死亡する確率は極めて高い一方、墜落する可能性は極めて低い(「最も安全な乗り物」と言われる所以です)ため、全世界でのその積は0.0009%とされています(アメリカ国家運輸安全委員会による)。
また、日本で交通事故死する確率は0.0024%とされているそうです。
このように、あくまでリスクは相対的なものであり、新型コロナウイルスにもその観点が必要なはずです。
しかし、こういった論じ方をすると、「お前は新型コロナウイルスの恐ろしさを認識していないのか!」との厳しいお叱りを受けることは必定で、敢えてこのリスクを負ってまで指摘する人は少ないのが現状です。社会においてリスクがゼロということはそもそもあり得ません。国民の税金を原資とする国家予算も無限ではないのですから、ゼロリスク信仰に過度に捉われて不安や恐怖のみが拡散してしまうと、社会機能の著しい低下、最も納税者の利益に資する国家財政の有効な使い方と持続可能性の喪失を招くことになりかねません。
福島第一原発事故の後、年間1ミリシーベルトというほとんどゼロリスク的な数値目標を設定して除染費用だけで2兆5千億円を要し、発ガンを避けるとの目的で南相馬市の住民を避難させたことにより、糖尿病患者が増え、結果として逆にガン患者が増えてしまったという指摘もあります。前回も言及した「日本人のヘルスリテラシーの低さ」を克服するためには、適切な情報発信が必要です。今週の国会質疑でも「医療崩壊の危機」が大きく取り上げられましたが、全国が一律にそのような状態なわけではないはずです。「各都道府県の、どの地域が、どのような状況なのか」を前提としないままに国民に一律の自粛を求めることには限界があります。首都圏や京阪神などの大都市部の経済活動が厳しい時こそ、地方が日本経済を支えていくべきであり、それこそが地方創生の要諦なのです。全国一律の措置では、適切な対策とはなりえないと考えます。
ワクチン接種についても議論が始まります。「医療関係者や高齢者、基礎疾患を有する人」が優先されることには議論の余地がないと思われますが、その他はどうなのか。接種を拒否する人に対して強制は出来ないと思われますが、国民全体のためにそれは認められない、という意見もあるようで、それはどのような法的根拠に拠るのか。
全体として、平素「リベラル」な議論(国家権力に懐疑的、個人の権利を重視)を展開する方々が、今回は率先して政府に対してより厳しい措置を求めていることに、かなり不思議な思いがいたします。昨年末に改正され、本年元旦より施行された中国国防法の内容を仔細に読むと、中国の持つ特異性を痛感します。中国を批判することは容易ですが、中国は国際社会の多くの国々と価値観を全く異にするのであって、ただ批判ばかりしていても何も変わりません。この現実を正確に認識し、我が国としての対応を確立せねばなりません。
「警察は政府に隷属し、軍は国家に隷属する」と言われるように、軍隊は時の政権に対して中立的であり、一定の距離を保つものです。平成3(1991)年のソ連崩壊の時、ソ連軍が全く動かなかったことは強く印象に残っていますが、これを見た中国共産党は「人民解放軍は国民の軍隊ではなく、共産党の軍隊でなければならない」と強く認識したに違いありません。
改正国防法は第24条において「共産党の軍隊」であることを明確にするとともに、第4条でマルクス、レーニン、毛沢東、鄧小平と並んで習近平国家主席の名前を明記し、16条で国家主席に軍事的な権限を集中させています。
更に、従来公安部に属していた人民武装警察隊(日本の機動隊のようなもの)を軍の組織に位置付け、警察権と自衛権の行使を混然一体化させるなど、今回の改正は我々の常識を大きく超えたものとなっています。
「国もしくは国に準ずる主体による」「急迫不正の武力攻撃ではない」「領土などの我が国の国家主権に対する侵害」というグレーゾーン事態に対応する法制と態勢の整備は急務です。各種世論調査で支持率が急落していることを受け、今後の政局の観測記事が散見されるようになりましたが、不愉快の極みです。
昨年の9月に自民党が圧倒的な支持のもとに現政権を発足させ、報道も褒めそやしていたことを忘れたのでしょうか。このままでは自分の選挙が危ないので総裁を代えようなどという考え方が仮にあるとすればもっての外で、自分たちが決めたことには国民に対して最後まで責任を持たねばなりません。そのような恥知らずな議員は自民党にはいないと思っております。
平成元年、竹下内閣、宇野内閣と相次いで内閣が倒れたとき、我々当選1回生のうち数人で、清廉潔白で知られ、自民党政治改革本部長であられた伊東正義先生(外相・官房長官・自民党政調会長・総務会長などを歴任され平成6年に亡くなられました)に、自民党総裁・内閣総理大臣になってくださいと懇願しに行ったことがありました。そのとき、「君たち、表紙だけ変えても駄目だ。自民党の中身が変わらなければならないのだ」と厳しく諭されたことを思い出します。かつての自民党にはあのような立派な方がおられました。自分がその域に全く達していないことに反省の思いしかありません。バイデン新政権については回を改めて述べたいと思いますが、問われているのは独立主権国家としての日本の在り方です。「価値観を共有する唯一の同盟国」と決まり文句のように口にする人も多いのですが、それはどのような価値観だと考えるのか。そして、アメリカだけを唯一の同盟国とし続けることが、現在の我が国にとって最も望ましい選択肢なのか。これは集団的自衛権のみならず、集団安全保障にも正面から向き合わねばならない問題です。
多くの日程が取りやめになり、空き時間に書店に行く機会が増えました。送られてくる本だけで一週間に10冊を超えてしまい、これらに目を通すだけで精一杯だったのですが、書店で立ち読みをしながら本を探すことの大切さを改めて感じています。読むほどに自分の無知さ加減に嫌気がさしますが、今週は「コロナ禍の9割は情報災害」(長尾和宏著・山と渓谷社・2020年12月)、「小説 安楽死特区」(同・ブックマン社・2019年12月)、「不条理を生きるチカラ コロナ禍が気付かせた幻想の社会」(佐藤優、香山リカ両氏の対談・ビジネス社・2020年6月)、「世界史から読み解く『コロナ後』の現代」(佐藤けんいち著・ディスカヴァー携書・2020年12月)を興味深く読みました。「安楽死特区」は発刊当時、オビを書かせていただいたのですが、「コロナ禍の~」に合わせてもう一度読み返してみた次第です。
週末の都心は降雪も予想されています。皆様お元気でお過ごしくださいませ。