石破 茂 です。
東京、大阪、京都、兵庫に出されている緊急事態宣言が今月末まで延長され、新たに愛知、福岡も加えられることとなりました。
いつも疑問に思うのですが、政府の方針が先に決まり、これを基本的対処方針分科会に諮問して了承を得る、とのやり方はいかがなものなのでしょう。分科会がそれに異を唱えることなく、単なる「お墨付き」を得るためだけであればほとんど意味がありません。分科会の議事録は発言者も発言内容もすべて公開されており、これを読むと様々な意見があることが見て取れますが、政府が方針案を決める前に分科会を開催して意見を聴取し、これを受ける形で政府が方針案を固めて、これを分科会に提示する形式の方がより良いものと思います。多忙な委員を複数回呼集する困難性は十分に承知していますが、ことの重要性に鑑みてここは努力して頂きたいものです。世の中の人々に相当の不満と疲労感が鬱積していることは確かです。延長にあたって、大規模店舗やイベントに対する制限を緩和するというのなら、当初の制限にどのような効果があり、緩和するに至った根拠は何であるのか。東京都では「禁酒法」のごとくに飲食店での酒類の提供の禁止が継続されるようですが、酒類を提供する飲食店でクラスターがどれほどに発生し、それが酒類の提供とどのような関係があると分析したのか、重症化したり死に至った方々はどのような年齢でどのような疾患を持っておられたのか。
社会のあらゆるリスクは相対的なものであって、その管理も国政の役割なのですが、鬱や認知症、自殺、家庭内暴力、自宅に籠る高齢者を中心とする免疫力低下、この一年で10年は進んでしまったと言われる少子化の進行をどのように考えるのか、等についても、感染症の専門家だけではない分科会の意見が反映されるべきではないのでしょうか。
ウイルスが数週間に一度変異をするのはよく知られており、本質的な変異ではないので「変異種」ではなく「変異株」と言うのだそうですが、普通は感染力と致死性は一定の相反関係に立つはずで、今回の変異株は致死性が本当に高いのかについても、知り得る限りの情報提供をすべきものと思います。何度も強調しますが、緊急事態宣言の目的は本来、医療崩壊の阻止であるはずです。この1年で医療の提供体制がどの地域でどれほどに拡大したのか、「逼迫率」の分母である感染者数(この数字だけに意味があるのではありませんが)と共に、新型コロナに対応できる第二次医療圏ごとの病床数などの数字の検証は不可欠です。平時を前提としている日本の医療体制の宿痾である、垂直的、水平的な機動性と弾力性の欠如を、今を機に改善しなければ、今回の新型コロナよりも強毒性のウイルスに対処は出来ないと思います。
米村滋人・東大教授は、民間医療機関に対する行政の指揮命令権が欠如していることを理由に挙げており、医療法の改正が難しければ、特措法にその権限を明記して法的な根拠を与えるということも一つの考え方だと指摘しておられます。これを妨げているのは何であるのか、答えを出すのも政治の責任と考えています。昨6日、衆議院憲法審査会において国民投票法改正案が修正・可決され、今国会で成立の見込みとなりました。審査会幹事をはじめとする多くの方々の努力には敬意を表しますが、なぜ単なる手続法の改正にこれほどの時間がかかってしまったのか、私には全く理解が出来ません。
「国はテレビCMやインターネット広告などの規制について3年を目途に法制上その他の措置を講じる」との付則も設けられました。資金の多寡や権力の強弱によって有権者に対する訴求力が異なるようなことがあってはならないのは当然のことですが、この措置が講ぜられるまでの間も憲法本体の議論は進めるべきですし、併せて、憲法改正の重要性に鑑みれば、投票率の下限も定められるべきものと思います。反対勢力の投票ボイコット運動を誘発する、との危惧ももっともですが、そのような病理的な現象で本質論が看過されるべきではありません。
国民投票法のような手続法でさえこのような時間を要したのですから、憲法本体の議論の進展と実際の改正までの道のりは前途遼遠という感じも致しますが、それは憲法改正にどれほどの使命感と熱意を持つかの問題なのだと思います。第9条第1項・第2項をそのままにして第3項に自衛隊を明記するという論理的にも政策的にも成り立たない案を掲げたままで、改正推進の使命感と熱意が伝わるとは思えません。我々は国民の英知に対する怖れをもって、真摯に臨まなくてはなりません。コロナ対策も、憲法改正もその本質は同じものです。この連休中は意欲的な計画を立てながら、読みたい本の三分の一しか読めないといういつものような計画倒れに終わりましたが、宿舎の片付けの最中に中学生の頃に読んだ太宰治の全集が出てきて、ついつい読み耽ってしまいました。「ろまん灯籠」「お伽草子」「新ハムレット」などを読み返せたのはとても懐かしいひとときでしたし、中学生には理解不能だった「斜陽」も新たな感慨を持って読むことが出来ました。国語の教科書にも載っていた「走れメロス」も感動的な短編ですが「世の中というものはこんなにうまくできてはいない。王様も民衆ももっと利己的なのだ」と教えてくださった中学時代の故・木村俊夫先生のことをふと思い出しました。
皆様、ご健勝にてお過ごしくださいませ。