ベトナム訪問:日越大学における政策スピーチ

本日は、日本とASEAN(東南アジア諸国連合)の人造りの象徴である日越大学の学生の皆さんとお会いできることを楽しみにしてまいりました。 日越大学は日越首脳間の合意に基づいて設立されました。日・ASEAN協力、特に次世代のグローバルな人材育成の象徴です。ここで勉強されるベトナム、ASEAN、そして世界の未来を担う皆さんの前で、総理大臣就任後初の外遊としてベトナムを訪れ、今日、講演を行うことができることを、大変光栄に思います。 私は、ちょうど1か月前、健康が理由で退任された安倍前総理を引継ぎ、総理大臣に就任しました。安倍前総理は、日越大学の設立を含め、日・ASEAN関係の進展に尽力されました。私も、ASEANの皆さんとの友情と協力を深めていきたいと思っています。 この機会に、私のことを少しだけお話しさせてください。私自身が貴国とASEANに大変な親近感を持っているように、もしかしたら、皆さんにも私への親近感を少しでももっていただけるかもしれないと思い、お話させていただきます。 このベトナムでも雪が降ると聞いたことがありますが、日本の北部にある私の故郷、秋田県の雪を見たら、皆さんは驚かれることでしょう。建物の二階部分の高さまで雪が積もることもある、それぐらい雪が降る地方です。そんな雪深い秋田で、私は農家の長男としてとして高校まで育ちました。 私は高校を卒業後、東京に上京し、まずは町工場で働き始めましたが、すぐに厳しい現実に直面し、大学に行かないと自分の人生は変わらないと考え、2年遅れで大学に進学しました。 この日越大学で学び、更なる人生の飛躍の準備をされている皆さんと、同じような心境だったと思います。 アルバイトで学費を稼ぎながら大学を卒業した後、いったんは民間企業に就職しましたが、世の中が見え始めた頃、「世の中を動かしているのは政治かもしれない」との思いに至り、地縁も血縁もない政治の道に進んだのが26歳の頃でした。正にゼロからのスタート、45年前のことです。 国会議員の秘書を11年務めた後、38歳で地方議員に当選し、地方の発展のためには国を変えなければならない、との思いで国政を目指し、47歳で国会議員になりました。 その後、閣僚となり、安倍前総理の下で官房長官を8年近く務め、先般、総理大臣に就任しました。 政治の世界に飛び込んで以来、どうしたら国民の生活を少しでも良くできるかということを常に考え、多くの方々の協力を得ながら、懸命に努力してきました。その結果、総理大臣という重責を担い、「国民のために働く内閣」を自ら主導するところまで来ました。 振り返れば、私が政治家として切り開いてきた道のりは、正にゼロからスタートでした。しかし、愚直に努力を積み重ねながら成長してきた日本の歩みと似ているかもしれません。同時に、今や世界の成長センターとなるまでに目覚ましい発展を遂げてきたベトナム、そしてASEANの皆さんとも、どこか似ているものを感じるのです。私が皆さんに親近感をもつのも、そういう理由からだと思います。そういう思いから、冒頭この話をさせていただきました。 ASEANと日本は対等なパートナーであり、友人です。成長を目指して一緒に努力し、切磋琢磨(せっさたくま)し、協力しながら支え合っていく。正に「ハート・トゥ・ハート」、心と心の触れ合う関係です。 最近の新型コロナウイルス感染症への対応がその好例です。この感染症が発生してから、世界中でサプライチェーンが寸断され、多くの国では医療物資不足が発生しました。日本でも医療物資が不足し、私も官房長官として、物資の確保と現場への配布のために奔走いたしました。 そのような中、ベトナムから120万枚のマスクが日本に届けられたことに強く感銘を受けました。戦略的パートナーシップを有するからこその協力です。 また、次に訪れるインドネシアからは、両国が新型コロナウイルスと戦う厳しい状況にもかかわらず、輸出禁止措置の適用除外という形で医療用術衣の輸出が再開されました。これも困った時こそ互いに助け合う戦略的パートナーシップの強靱(きょうじん)さの一例だと思います。 日本からはASEANにおける保健医療体制の強化、公衆衛生の改善に貢献すべく、医療物資・機材の無償供与や人材育成を行っています。また、ASEANを含むインド太平洋諸国を中心に、経済活動を支えるため、2年間で最大5,000億円の緊急支援円借款をかつてないスピードで実施しています。これらの協力は、日本がASEANと一緒に進めてきたユニバーサル・ヘルス・カバレッジにも資するものです。 そして、今、日本とASEANは、感染症に対するASEANの対応能力を強化するため、ASEAN感染症対策センターの設立に向けて力を合わせています。 9年半前、東日本大震災に見舞われた日本を、ASEAN各国が友人として助けてくれたことを我々は忘れることはできません。危機の際に助け合い、新たな課題に迅速に対処することも、対等なパートナーである日本とASEANの協力関係の特徴ではないでしょうか。 ASEANは、多様性を認め合い、お互いを尊重し、コンセンサスを重視する、そうした精神の下で地域統合を進め、発展してきました。日本は、そのASEANをしっかり支えていくことが、日本自身を含む地域の平和と安定、繁栄につながると考え、数十年にわたり、様々な協力を通じてASEANの中心性と一体性を後押ししてきました。 今では国際ビジネスを語る上で欠かせないサプライチェーン、その先駆けは日本企業のASEANへの投資だと考えています。日本の自動車メーカーは、1960年代にタイに工場を設立し、それを皮切りに多くの日本企業がASEANに投資しました。 その過程において、日本企業は各国の従業員に対して研修を行って専門性を深め、地場企業の育成に貢献してきました。 この日本企業からの投資と日本政府によるODA(政府開発援助)が、いわば「車の両輪」として、ASEANの持続可能な発展に寄与してきたと考えています。 そのODA協力の代表例は、ハードの連結性、インフラ整備です。港湾、道路、鉄道、空港、工業団地といった経済成長のための社会基盤を開放的に形成し、それを国境を越えてつなぎ、経済回廊を形成していく。例えばベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマーを横断していく東西経済回廊と南部経済回廊。質の高いインフラ整備を通じてASEANの国々がお互いのつながりを強め、地域全体として共に発展していくことを、日本は支えていきます。日本企業にとっても極めて重要なASEAN経済の土台作りが、日本とASEANの協力の下で、正に現在進行形で進んでいることを大変うれしく思います。 このハードの連結性を基に、日本とASEANは国際経済体制の強化に向けたルール作りにも共に取り組み、ソフトの連結性の向上にも挑戦しています。 2000年代以降、グローバル化が急速に進む中で、WTO(世界貿易機関)ラウンドが停滞し、貿易や投資に関するルール作りはなかなか進みませんでした。そこで、ASEANと日本は、シンガポールとの経済連携協定を皮切りに、2国間の経済連携協定や日・ASEAN包括的経済連携協定を通じて、貿易上の障壁を下げるとともに、地域の経済活動に関するルール作続きをみる

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