苦しみのうちに楽しみがある

 2月は北海道で活動する者として、特別な月です。先日は新十津川町で西田信春、今週末は小樽市で小林多喜二、そして今日は野呂栄太郎が命を奪われた日。いずれも北海道の日本共産党の大先輩です。

 野呂の墓は札幌市平岸霊園に、慰霊碑は生誕地である長沼町にあります。それぞれにおいて墓前祭と碑前祭がおこなわれ、私が党道委員会の代表として参加とあいさつ。碑前祭には、初めて長沼町教育長さんや農民協議会から中村委員長さんも来賓として参加くださいました。

 野呂は1900年4月30日に長沼町で、農家の長男として生まれました。「幼時から、一方では労働の尊さを、そして他方では資本の原始的蓄積のカラクリ、資本主義の制度の不合理をマザマザと見せつけられて育ちました」と、後に雑誌社の質問に答えています。額に汗して働く農家や町民が貧しいままでいたことに、強い問題意識を持っていたことが伝わります。

 日本の歴史に引き寄せた経済学をと自分なりにメモをつくり始めたのが、あの「日本資本主義発達史講座」刊行へとつながりました。党の運動に参加していない研究者とも手をつなぎ、日本の民主的変革という大きな線での一致があれば研究は自由にやってほしいと、野呂は口にしていたそうです。今の「市民と野党の共闘」に通ずるものがあると思いました。

 1933年にスパイの手引きで検挙された野呂は、翌年2月19日に品川警察署での拷問によって病状が悪化し、戻らぬ人となりました。それでも彼は、雑誌社の質問に答えて「われらの日常は物質的にも、社会的にも苦しみそのものです。がしかし、この苦しみのうちにこそまたわれわれの楽しみがあるのです」との言葉を残しました。理論的にも人間的にも卓越していた野呂は、未来社会への「地続き」を自分のものとしていたのかと驚くばかりです。

 実は2月19日は、4年前の衆議院5区補欠選挙で池田真紀さんを共闘候補にと、市民と野党で合意した日でもあります。北海道での「市民と野党の共闘」をスタートさせた日が奇遇にも野呂の命日だったのですと、治維法国賠同盟の宮田汎・道本部会長があいさつで触れました。今の情勢を野呂が見たら、どのような思いを持つでしょうか。

 党としても先月、綱領の一部改定をおこないました。野呂が築き上げた理論的到達点が土台になり、未来を示す党綱領が今日的な輝きを増しています。ウソと偽りの安倍政治を変えて、野呂も願っていた平和と自由・民主主義の日本にしていこうと、参加されたみなさんと心をひとつにしました。

 そして19日は、安保法制=戦争法の採決が強行された日。総がかり実行委員会の集会が開かれ、私も参加しました。「桜を見る会」前夜祭はじめ、安倍首相のウソや偽りが次々と明らかになっているなか、やっぱり決め手は国民世論。政治は変えられるという展望が見えるように、私も語っていかねばとの思いを強めました。

 【今日の句】理も情も感じぬ それが安倍政権
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畠山和也
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