石破 茂 です。
昨日は衆参両院の議院運営委員会で国葬についての議論が交わされましたが、あまり深まりも進展もないままに終わったようで、残念なことでした。決まった以上、安倍元総理の国葬は粛々・淡々と行うべきですが、それとは別に議論そのものについてはこの際うやむやにせず、進化させておくこともまた、絶対に必要です。
国葬(国葬儀)について、1960年代には政府も「内閣として法的な整備が必要である」としていたのですが、一転して1972(昭和47年)に「国葬は単なる事実行為であり、法制化の必要はない」と変更しました。今回の国葬についてはこの決定を踏襲したものと思われます。
その後1975(昭和50)年6月3日未明に佐藤栄作元総理が逝去した際、同日午前8時に急遽開催された政府・自民党の首脳会議に陪席した吉国一郎法制局長官(当時)は、「司法・立法・行政の合意が必要」と述べた、と報ぜられています(同日日経新聞夕刊)。当時の最大野党であった日本社会党が国葬に否定的であったこともあり、佐藤元総理の葬儀は国葬ではなく、政府・自民党の他に財界なども主催者となって費用を分担する「国民葬」として執り行われました。私にはこの吉国長官の発言の方が、より説得的であるように思われます。
以前本欄で指摘したように、旧憲法下における「国葬令」に基づく国葬は、唯一の主権者であった天皇から下賜されるものであったため、その決定に異議をはさむ余地は法的にも全くなかったのですが、現行憲法下で主権者が国民となった以上、今後国葬を執り行うに当たっては、この「国民の意思」が表明される必要があるものと考えます。
「誰を国葬とすべきか」の基準を定めることはまず不可能でしょうが、決定に至るプロセスにおいて「主権者である国民の意思」が表明される、ということが重要です。そしてそれには、憲法上「国権の最高機関」と位置づけられ、全国民を代表する議員によって構成される国会の議決がまず必要でしょう。両院の議決があって、意見を求められた内閣(内閣総理大臣)が、これに異存のない旨を表明する、という流れが考えられます。もちろん、内閣から国会に対して国葬を執り行いたい旨の提案があり、これに国会が同意する、という形式も当然ありうることで、これは今後の議論です。なお、司法の合意をどのように得るのかについては、最高裁長官の談話の発出などが考えられますが、そもそも司法の合意が果たして必要なのかにつき、私はやや懐疑的です。
そして、国葬に関する議決は、可能な限り全会一致によるのが望ましいというべきでしょう。
国葬まであと二週間余り、せっかく議論を進めるべき機会に、徒に時間を浪費し、問題を先送りするようなことはすべきではありません。自民党が旧統一教会(世界平和統一家庭連合)と一切の関係を断つ、とする方針を打ち出したことはよかったと思いますが、前回も記したように、この方針を貫徹するのであれば、宗教法人として公益性を認め、それゆえに税制等の様々な優遇がなされていることについても、否定的に考えるべきなのではないでしょうか。もちろん宗教法人法第81条に定める解散命令の発出を申し立てるにあたっては、慎重なうえにも慎重であるべきですが、「解散命令は、信者の宗教上の行為を禁止したり制限したりする法的効果を一切伴わない」とのオウム真理教事件特別抗告審における最高裁判所の判示もあります。「公益性とは何か」について、よく考えたいと思います。
9月に入り、朝夕は随分と凌ぎやすくなってきました。
皆様、ご健勝にてお過ごしくださいませ。