スポーツウォッシングを考える

連日、千葉県議会では一般質問が続いています。朝、昼休み、散会後も各課による説明、打ち合わせと目白押しです。

 

 

通勤時間は唯一、自分の時間として有効活用できるので、読書タイムに充てています。

 

今回ご紹介するのは

『スポーツウォッシング

~なぜ〈勇気と感動〉は利用されるのか~』

西村章さん著

 

 

政治家を長く務めている人であれば、感覚的に理解できる内容だと思います。

そもそも「スポーツウォッシング」という言葉が普及し始めたのも割と最近であり、特に東京オリンピックで耳にする機会が増えたと思います。

 

スポーツウォッシングは”為政者に都合の悪い政治や社会の歪みをスポーツを利用して覆い隠す行為”という意味で使われ、先駆的にスポーツの政治利用として有名なのは1936年のベルリンオリンピック。

ヒトラーとナチス政権が批判を抑えつけるためにオリンピックを利用したと言われています。

ここ数年、私もナチスドイツについて研究をしています。

 

健康的なスポーツ競技は神聖なものであり、「勇気」「感動」「興奮」「熱狂」といった純粋な存在として扱われ、そこに政治などが加わると「大会の盛り上がりに水を差す無粋な行為」として考えられてしまうことを著者は指摘しています。

 

この本は様々な立場の方の意見が多く反映されており、実は私もお知り合いの本間龍さんも登場されています。

本間さんは大手広告代理店ご出身で、東京オリンピックという巨大イベントが作り出した影の部分として、逮捕者が出たことや6社が起訴されたことも踏まえ、大規模な大会とメディアの関係性に触れています。

 

平尾剛氏は

アスリート側から声を上げないと、スポンサーや主催者側の利益になるかたちでどんどん利用され続けます。~もう、かなりのところまで浸食されていると思います。~だから、なにを差しおいても、まずはアスリートたち自身が見識を高め、社会に対してもう少し意見を持ち、押し戻してほしい。

と警鐘を鳴らしています。

 

複数の専門家が同じ主張をしています。

洗濯としてスポーツが利用されないためには、アスリートも自分の言葉を持つべきである、と。

日本のスポーツは社会に向けた言葉だけが抜けてしまっている、と・・・

 

私自身、幼少期は米国に住んでいたということもあり、自分の意見を持ち、行動に移す、ということは比較的備わっている方だと感じています。

そのため、今の政治の世界でも、仲良しクラブみたいに人と群れたりすることも、政局の話も苦手です。

それはやはり育った『環境』が大きく関係している気がします。

日本の教育やスポーツ環境と海外のそれらとは大きく異なることは本でも書かれています。

 

日本のスポーツの社会的位置は、エンタテインメントと学校的世界に幽閉されている

と指摘するのは山本敦久氏(成城大学教授)。

 

『学校の中で活躍すればいい。経済活動の中で起業と一緒になって頑張ればいい、あるいは家族の感動物語の延長戦上にあるナショナリズムの中にあればいい。そういう存在でいいんだ』とアスリートたちは甘やかされてきたんです」(P162)

 

スポーツに集中できる環境だけを整備しておけば良い、他のことにとらわれるべきではない、という無菌室のような状態が日本では続いています。

しかし、海外ではスポーツにおいて「ソーシャル」の側面が大きく、それぞれが自分の意見を持ち、発信・表現することも多々あります。

 

例えばBLM(Black Lives Matter)

BLM運動が活発になり、大坂なおみ選手が支持を表明したこともあり、日本でも注目されました。

NIKEも企業として、BLM運動をサポートしています。

 

一方で日本語圏のSNSの一部ではBLMへの激しい攻撃も見られたことから、日本では「スポーツに政治は持ち込んではいけない」という風潮が根強いことがわかります。

しかし、本の中でも言及されていますが、SNSも発展し、世界全体が複雑化・多様化し、LGBTQ➕含め様々な差異が存在する中で、アスリートである前に社会を構成する一人の人間として主張したいことは主張して良いと思います。

 

都合が悪くなると爽やかなイメージのあるスポーツを利用しようとする個人、団体、政治家等がいることについて、ソウルオリンピック柔道の銅メダリストの山口香氏は

やっぱり気をつけなきゃいけないよね、と初めて気づく

諸外国に比べると日本の場合は、社会がアスリートにスポーツのパフォーマンス以外のものを期待しない傾向が強いように感じます」と。

 

そういう風潮は日本特有の環境や教育の中で培われたものですが、SNSの急激な発展に伴い、情報に触れないことの方が難しい世の中となった今、スポーツと社会のあり方は過渡期に差し掛かっていると感じます。

 

例えば不都合な報道がなされた場合、心のどこかでスポーツの感動と勇気で覆い隠してしまえば、批判はされない、むしろ批判する人の方が糾弾されると思っている政治家もいるのではないでしょうか。

それは汚れの洗剤としてスポーツを利用しているのであり、スポーツに対して失礼な行為だと私は思います。

そして、そういった行為はSNSユーザーにはお見通しであることも理解するべきです。

 

アスリート、各競技団体、メディア、ファン、スポンサーが複雑に絡み合い、それぞれがそれぞれに作用してしまう構造の中で、私たち政治家もスポーツ政策に関わる中で、本当の意味でスポーツをリスペクトした上で、自分のスポーツに対する関わり方を意識していくことが大切だと思うのです。