今から120年前の2月13日は川俣事件の日です。足尾銅山による数千名の鉱毒被害民が東京へ徒歩で鉱山停止を求める請願に向かいました。そして川俣の地で行進を阻もうとした警官隊と衝突し、死者を含め多くの重軽傷者をだし、さらに数十名が逮捕されました(その後の裁判で、実質的に全員不起訴)。事態を重くみた地元村長や村議会議員は村医を呼び応急手当や、炊き出しを行い救護に努めたことが記録に残っています。この川俣事件について、事件地である群馬県明和町が、平成12年2月13日に事件発生後100年の経過を機に寄附を募り、下記の碑を建立しました。関根ジローは、鉱毒被害民とともに闘った田中正造や川俣事件の被害者の救護に努めた村長・村議会議員に思いを馳せ、自分自身もそのような政治家でありたいと思っております。★★★★★★川俣事件は足尾鉱毒問題の中で最も大きな事件である明治の中頃 渡良瀬川の上流足尾銅山から流出する鉱毒によって中下流域は農作物や魚類に甚大な被害を受けた生活を脅かされた農民たちは 銅山の鉱業停止や補償を求めて再度にわたり大挙上京請願(押出し)を決行したがその成果は少なかった 一八九八(明治三十一)年九月大暴風雨による洪水は銅山の沈澱池が決壊し渡良瀬川流域の田畑は深刻な被害をうけた 耐えかねた被害民は足尾銅山の鉱業停止を求めて第三回東京押出しを決行したその数一万余人 薄着姿の老人も見られたという時の栃木県選出代議士田中正造は この報に接し 急ぎ上京途中の一行に会い多くの犠牲者を出さないために総代を残して帰村するよう説得したその演説は 被害民を動かし 警備の憲兵・警察官にも深い感銘を与続きをみる『著作権保護のため、記事の一部のみ表示されております。』