石破 茂 です。
予算委員会は大きな混乱もないままに質疑が淡々と進み、2日火曜日に予算案は衆議院を通過して参議院に送付され、年度内成立が確実となりました。
米中対立や最近の中国の動向を踏まえた外交・安全保障論議や、新型コロナの陰で進行が一層加速する少子高齢化への対応などの議論がほとんど深まらなかったのには、切歯扼腕する思いでした。総務省や農水省などの問題は、参議院の審議においてさらに解明されなくてはなりませんし、政府は国民の理解が得られるように一層努めなくてはなりません。衆議院の予算審議において野党の追及が拍子抜けするほどに迫力不足だったのは、新型コロナ禍の中にあって、予算の成立を遅らせて国民の批判を浴びることを怖れたからなのでしょう。行動制限を緩めることなく緊張感を維持し、補償は更に手厚くすべきだ、との論調には基本的に誰も反対できませんし、政府がそれに応えた形で一定の譲歩をすれば野党の顔もそれなりに立つというものですが、これはあくまで国会の中の駆け引きなのであって、国民の抱く疑問や不安に十分に応えたことにはなりません。
野党は「ゼロコロナ」などという一般受けしそうなフレーズを使っていますが、コロナウイルスがゼロになるなどということはあり得ないのであって、当面の間は経済と安全のバランスを取りつつ、ワクチン接種を進めて、終息を待つ他はありません。緊急事態宣言の目的は、あくまで「医療崩壊の阻止」にあったはずであり、国民に「活動の自粛」という負担を求め続けるのは均衡を失するものではないでしょうか。飲食店が「クラスター発生の元凶」として集中的にターゲットになっていますが、飲食店という「場所」が問題なのではなく、人数の多寡にかかわらず、密接な距離で、酒が入って大声で会話をしながら飲食するという「行為」が問題であるはずなのに、そういう議論にはならないままに多くの飲食店が危機に瀕しているのは異様なことです。
建築基準法により換気が義務付けられた会場で、客が消毒と検温を徹底し、会話・発声を禁止して開催されるコンサートや演劇などのライブ・エンターテイメントも同様で、これらは基準を明確にしたうえでなるべく早く通常に戻さなければなりません。マスク着用、消毒、手洗い、換気などの徹底により、感染機会を更に減らしつつ、接触機会を是認する方向に転換すべき時です。
「コロナとの戦い」と言うからには、敵を知り己を知らなければこれに勝つことは出来ないのですが、敵の正体を仔細に見極めないままに一律に「鬼畜米英」的に一括りにして、これに異を唱えれば「非国民」扱いされて村八分ならぬ「コロナ八分」にされてしまう、などという風潮はどこかで改めなければなりません。輿論(よろん)ではなく、作られた世論(せろん)で社会が左右されてはならないのです。医療崩壊を起こさないためには、国民に自粛を求めるばかりではなく医療の供給体制を見直すことも同時に必要なのですが、それはこの一年でどれほど進んだのでしょうか。
この一年で新型コロナウイルスの正体は相当に解明されて治療法は随分と進み、致死率は下がり、救命率も上がったはずなのですが、そういった情報も決して十分ではありません。
情報の発信についても、比較する上で確実性のない陽性者数や感染者数を、現実と時間的に差がある「報告日ベース」によって発表するのではなく、発症者・重症者・死亡者を「発生日ベース」によって発表する方が、国民に正しく現状を把握してもらえるのではないでしょうか。
新型コロナウイルスを決して侮ることなく、「正しく知り、正しく怖れる」ことが必要です。尖閣海域での中国の動きに関連して「外国公船乗員が上陸を試みた場合、海保がこれを阻止するため、重大凶悪犯罪とみなして危害射撃も可能」との見解が政府から示されていますが、外国の国家主権の行使によって我が国の国家主権が侵害されることに対して、これを「犯罪」として警察権によって対処することが本当に最も適当なのか、という疑問が拭えません。
私は海上保安庁法、および自衛隊法の規定を改正し、領海警備的な概念をもった行動規定を創設すべきではないのかと長年考えていますが、面子や精神論に捉われることなく、よく検証して結論を出さなくてはなりません。警察権と自衛権の質的な相違、急迫不正の武力攻撃によらない国家主権の侵害(いわゆるグレーゾーン事態)への対処等、本質的な議論を先送りし続けてきたのは全て我々の責任なのです。繰り返しになって恐縮ですが、自民党が国民の厳しい批判を浴びながらも、野党への支持が広がらないのは、「支持率」という数字の意味するところを誤解しているからです。どんなに的確で鋭い批判をしても、「この党に政権を任せてみよう」という支持率には全く直結しません。両者はその質を異にするものなのに、今の野党はそれに気付いていないか、気付いていても敢えてそれに目を瞑っているかのどらかではないでしょうか。民主党政権はそのすべてが「悪夢」だったのではなく、論戦のやり甲斐がある優れた閣僚もおられたのですが、彼らが質問に立つ機会がほとんどないか、立っても時間が極めて短いかのどちらかで、随分と勿体ないことでした。内容の濃い議論があってこそ、与野党協同による国民のための政治が出来るのだと思います。
近々関連するパネル・ディスカッションに参加するため、今更ながら石橋湛山元首相について調べています。
首相在任は昭和31年12月23日から32年2月25日までのわずか65日間という短いものでしたが(その間の昭和32年2月に私は生まれています)、徹底した自由主義者、気骨のジャーナリストとして軍国主義に徹底して反対し、領土拡大に異を唱えて「小日本主義」を提唱、国民を扇動するマスコミを厳しく批判した戦前の峻烈な姿勢は、今の政治にもメディアにも見られなくなってしまいました。
戦後、一貫して集団安全保障の重要性を主張しているのも、現在のアジア・太平洋の安全保障環境の緊迫化を考えると極めて先見性のあるものです。「石橋湛山評論集」(岩波文庫)、「戦う石橋湛山」(半藤一利著・ちくま文庫)、「湛山読本」(船橋洋一著・東洋経済新報社)、「石橋湛山と小国主義」(井出孫六著・岩波ブックレット)、「日本のリベラルと石橋湛山」(田中秀征著・講談社)などからは大きな示唆を受けています。新型コロナウイルス禍で思いがけず出来た時間にも、有り難いことがあるものだと感じております。
「私が今の政治家を見て一番痛感するのは『自分』が欠けているという点である。『自分』とは自らの信念だ。自分の信ずるところに従って行動するという大事な点を忘れ、まるで他人の道具に成り下がっている人が多い。政治の堕落といわれるものの大部分はここに起因すると思う。政治家にはいろいろなタイプの人がいるが、最もつまらぬタイプは自分の考えを持たない政治家だ。金を集めることが上手で、大勢の子分を抱えているというだけでは本当の政治家ではない。政治家に大事なことは、まず自分に忠実であること、自分を偽らぬことである」(「政治家にのぞむこと」昭和42年)
湛山のこの言葉に接し、自らを省みて足らざるところの多いことを恥じるばかりです。
皆様ご健勝にてお過ごしくださいませ。