石破 茂 です。
日本学術会議の会員任命について、会員になれば学士院会員になれる、多額の年金が貰える、などという根拠のない情報が発信され、それをそのまま拡散する議員がいるという事態は実に情けないものです。日本学術会議法にせよ、学士会法にせよ、根拠となる条文を、議員もメディアもよく確認しないままでは、官僚機構に対して意義ある意見を述べることはできないでしょう。様々な諮問機関的組織を改革の俎上に載せること自体は必要な場合もありますが、であればこそ政府もその都度、説明責任を果たすべきものです。
10日深夜に行なわれた北朝鮮の軍事パレードは、北の軍事技術の着実な進歩をまざまざと見せつけられるものでした。金正恩党委員長の演説ではアメリカを名指しして非難するのを避けたことと併せて考えると、アメリカとの交渉再開を強く望む姿勢は見られましたが、脅威は能力と意図の掛け算の積なのであって、ICBMやSLBMの能力向上を甘く見るべきではありません。
アメリカのM1戦車や日本の軽装甲機動車に酷似した不思議な車両の数々には「?」と思う他はありませんが、「所詮ハリボテの見せかけ展示で怖れるに足らず」というような楽観論にはとても与することはできません。
予期せぬ「第一撃」による被害を出さないためにもイージス・アショアの果たすべき機能は早急に実現させるべきですし、敵基地攻撃能力を保持するとすれば、「専守防衛」の理念と違背しない具体的な法的根拠と、それに合致する装備体系とを整備しなければなりません。
先週末は、土曜日に新潟県長岡市、日曜日に富山県高岡市でそれぞれ講演させて頂く機会を得ました。
長岡、と言えば幕末の北越戦争で長岡藩を導いた上席家老・河井継之助、「米百俵」の小林虎三郎、太平洋戦争時の連合(聯合)艦隊司令長官・山本五十六(海兵32期)、の名が挙がりますが、今回この三偉人について改めて学ぶことが出来たのはとても有り難いことでした。
河井継之助については高校生の頃、司馬遼太郎の小説「峠」(新潮文庫)を読んだ程度なのですが、江戸遊学中に交流のあったスイス人から学んだ「武装中立」の考え方に感銘を受け、長岡藩を官軍からも幕軍からも中立たるべく努力奮戦した末に敗れたとの記述に感動した記憶があります。
そして、その北越戦争の敗戦後に石高を大きく減らされ、疲弊しきった長岡藩に友藩から送られた米を「教育に充てて人材育成に活用すべき」と唱えたのが、長岡藩大参事(副知事)であった小林虎三郎でした。
山本五十六の言葉では「やってみせ、言ってきかせて、させてみて、誉めてやらねば人は動かじ」「苦しいこともあるだろう、言いたいこともあるだろう、不満なこともあるだろう、腹の立つこともあるだろう、泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが男の修業である」の二つが有名ですが、「内戦では国は滅びないが戦争で国は滅びる。陸海軍の対立を避けるために三国同盟を結び、戦争に賭けるなどというのは本末転倒も甚だしい」という言葉も冷静に本質を言い当てていたと思います。「結局連合艦隊は全滅し、太平洋戦争に負けて国は焦土と化してしまったではないか、山本は無責任極まりない」と後世になって批判する見解も多くありますし、私生活を批判的に紹介するものがあることも承知していますが、私にとって山本五十六は今も光り輝く特別の存在です。他に太平洋戦争時の日本海軍提督では、山口多聞(海兵40期)、井上成美(同37期)、小沢治三郎(同37期)が好きです。
かつての帝国陸海軍を、ただ批判することもただ礼賛することも厳に慎むべきですし、平和の大切さを語り継ぐべきは論を俟ちません。その上で、一人一人の軍人の人間としての生き様には、学ぶべきこと、感動させられることが多々あります。
私の選挙区である鳥取市の出身では、戦艦「武蔵」の最後の艦長であった猪口敏平(いのくち・としひら)海軍中将、戦争末期に東海軍区(愛知・岐阜・静岡・三重・石川・富山)司令官を務めていた際、米軍爆撃機搭乗員を処刑し、B級戦犯として絞首刑となった岡田資(おかだ・たすく)陸軍中将が挙げられます。沈没間際に書かれた猪口艦長の遺書はとても感動的なものですし、戦犯裁判においてこれを「法戦」と位置づけ、「名古屋市民を無差別に殺戮したB29の爆撃はハーグ条約違反であり、搭乗員は戦犯であって捕虜ではない」と徹底的に主張した岡田中将の姿は、映画「明日への遺言」(2008年、アスミック・エース、主演は藤田まこと・富司純子、原作は大岡昇平の「ながい旅」)に描かれています。
経済人、教育者、篤農家、武人、政治家…それぞれの地域に様々な人物がいて、それは地域の歴史・文化や風土と大きく関わっています。このような「郷土の偉人」については、それぞれの地域できちんと学ぶ機会を設け、市町村立中学校や都道府県立高等学校の試験にも出る、くらいのことを、検討する価値はあるのではないでしょうか。それが郷土への愛着や誇りを育むことや、あのような戦争を二度と繰り返さないことにもつながるのではないでしょうか。
作曲家の筒美京平氏の逝去の報に接して「また昭和が一つ終わった」との感を深くしましたし、同世代の方で同じ思いを持たれた方も多いと思います。昭和、それも昭和40年以降、作詞家ではなかにし礼氏、阿久悠氏、作曲家では筒美京平氏が最も偉大であったように思います。今もご健在なのはなかにし氏だけになってしまい、とても寂しい思いが致します。
春は「早春の港」(南沙織)「春おぼろ」(岩崎宏美)、夏は「エスカレーション」(河合奈保子)、秋は「九月の雨」(太田裕美)「哀愁のページ」「色づく街」(南沙織)等々、青春時代に聴いた名曲の数々がその時代の思い出と共に鮮やかに蘇ります。享年80歳、天才作曲家の御霊の安らかならんことをお祈りします。
寒ささえ感じる週末となりそうです。皆様ご健勝にてお過ごしくださいませ。