連日メディアを賑わせている東京都知事選ですが、都民の暮らしの向上や税金の使い道など、本来の都政上の課題はそっちのけの場外乱闘ばかりが続いています。
◆不適切の数々
あらゆる点から異様な選挙活動が繰り広げられる都知事選ですが、まずもって候補者が過去最高の56人を数え、掲示板のスペースが急きょ増設される事態になっています。もちろん真面目に知事になりたいという候補者もいるでしょうが、同じ政党から24人も立候補したり、都政とは何の関係もない公約を掲げたり、およそ本気で知事に当選しようとする気が見られない候補も多数いるのが現状です。
また、選挙ポスター掲示板に女性の全裸まがいの写真や犬の顔のポスターが貼られたり、有料サイトに誘導するQRコードが掲示されたりしているのに加え、必ずテレビに出られるという権利が与えられた政見放送も、笑い声を上げ続ける者、覆面姿で現れる者など、まさにカオス(混沌)そのものです。
本人たちにすれば悪評が立とうが注目されればそれで「もとが取れる」と考えているのでしょうが、公共の利益に関わる選挙活動をビジネスや自己承認欲求を満たす手段として扱うことは不適切にもほどがあります。
◆規制すればいい、ではない
民主主義という制度は、候補者、有権者双方のモラルを前提として成立しており、法制度もモラルを前提に整備されています。「法律で禁止されていないから何をやっても自由だ」というのは子どもじみた言い訳に過ぎません。このようなモラルが崩壊した選挙戦ばかりが繰り返されることは、まじめに政治に関心を持つ有権者を失望させ、さらなる政治の劣化が進むだけで、ふざけた選挙活動は規制を強くして取り締まれという声が出るのは当然でしょう。
しかし、私は今後、選挙に関する取り締まりや罰則を過度に厳しくする方向で進めるべきとは考えていません。
もちろん度が過ぎた行為は許されませんが、政治活動・選挙活動に過度の縛りをかけると、選挙のたびごとに警察や検察が候補者の一挙手一投足に目を光らせるようなことにもなりかねません。
さらに、それを利用して時の権力が特定の政治家をマークして、罪をでっちあげて追い落とそうとする可能性もより高まります。そうした光景は、およそ健全な民主主義社会とは程遠いものです。
◆原因は政治不信
都知事選に見られるカオス状態は民主主義の危機の始まりだという声も聞かれますが、むしろ順序が逆です。国民が政治への関心を失い、投票率が低下することで生じた民主主義の形骸化が政治のカオス化となって現れていると考えるべきです。そして、その大きな原因は、有権者にまっとうな政治の姿と政策議論を提示しきれていない既存の政治にあるのです。
長年にわたる国会での虚偽答弁や強行採決、公約破りに裏金など政治への失望を招いた与党の責任は重大ですが、もちろん野党にも責任はあります。
国家観や具体的な政策に基づいた与党との対立軸を提示しきれず、追及といえば週刊誌記事の後追いや単なる罵倒ばかり、という批判はよく聞かれますが、この声を真摯に受け止めなければなりません。
政治のカオス化が進む中で、我々はもう一度本来の政治があるべき道に戻さなければなりません。国民の生活を一番に考える誠実な活動と主張、言論による国民との対話こそが、このカオスな風潮を変える道だと信じ、地道に訴えを続けていきたいと思います。
The post 第1135号 都知事選から見えるもの first appeared on 馬淵澄夫(まぶちすみお)奈良県第1区選出 衆議院議員.