□■再誕序章

 仕事納めの27日、奈良に戻って参りました。 事故から約2ヶ月の入院加療により、なんとか、年内に退院でき、ホッとしたところです。皆様には、ご心配をおかけし申し訳ございませんでした。また、この間、お見舞いはじめ様々なお気遣いをいただいた皆様、心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 今年は、年始の繰上当選の報せから怒濤の日々でもあった。2月5日に初登院し、無所属で国会に戻った。立憲、国民さらには無所属と同僚諸氏が議場野党席を三分している姿を見て、バラバラな野党の厳しい現実を実感した。3月に入れば、統一地方選に突入、さらには参院選へとなだれ込み、変わらぬ与党の強さを目の当たりにしながらも、政権の綻びを感じつつ新たなステージに向けてできる限りの動きを模索してきた。

 臨時国会直前には、立憲、国民、社民、社保会派による統一会派が立ち上がり、私も無所属の立場から参画し、4年ぶりの予算委員にも選ばれ、臨時会冒頭での予算委員会質疑に立った。
 また、早期の衆院解散総選挙を想定して、国民生活を直撃している消費税の問題を根本から考える勉強会を、れいわ新選組の山本太郎代表と共に立上げ、選挙の総点設定をリードすべく準備を始めたのが10月30日。

 その直後の11月4日、吉野山中で交通事故に遭遇した。助手席にてシートを倒して休んでいたところの事故。横になっていたが故の腰骨部分のシートベルトによる内臓損傷は、腸を断裂し腹腔内での大量出血を起こした。手首足首骨折、全身打撲で意識朦朧となる中、駆けつけてくれた救急隊員が、容態を診るなり即座にドクターヘリを要請。

 また、ドクターヘリには奈良県立医大付属病院高度救命救急センター長、福島教授も乗り込まれていて、即座に県立医大へと搬送、緊急開腹手術を施していただいた。ドクターヘリの日没による飛行制限があと10分に迫る中での救出は、緊張が走った、と後には医師団たちと談笑できる話のネタにはなったものだが、正直、人生で初めて死を意識した場面だった。

 「あと10分」で間に合わなければ、ドクターヘリ搬送は叶わず、私は救急車での陸送を余儀なくされて、2時間半はかかるであろう道中で、命を落としていた。 そんな緊迫した場面で、走馬灯のように脳裏をよぎったのは。不思議にも、家族やお世話になった方々や大切な人たち、ではなく、国会の場面であった。このまま、ここで、命を落とす無念さで、いっぱいだった…のだろう。薄れる意識の中で、「こんなことで、死ぬなんて。皆さんに、なんてお詫びしたらいいんだろう…」とばかり、考えていた。

 高度救命救急センターに運ばれてからは、気がついたらICUのベッドの上で、全身チューブに繋がれた状態だったが、救われたことを実感した瞬間でもあった。

 二年前の落選以来、「再誕」を掲げ、再び野党をまとめる中心に立つと信じて活動してきた1年3ヶ月の浪人時代。繰上当選となって、「再誕」と、回りから祝福を頂いたが、再選まではまだまだ、再誕ではありません、と地元でも語ってきた。しかし、この度の事故で、失ったかも知れない生命をあらためていただいた思い。担うべき使命があるのだ、と自認した。ようやく退院となり、年初の復帰を目指す状況だが、まだ、真の「再誕」ではない。序章に過ぎないのである。

 1月6日の13時半、県政記者クラブでの復帰会見を皮切りに、公務に復帰する。

 福島教授指導の下での医大チームによる内臓損傷手術後の経過は良好で、癒着や閉塞も生じず、早々に普通の食生活に戻れた。

 手首骨折は橈骨複雑骨折と掌側関節包靱帯断裂で機能回復にはまだ、しばらくかかりそう。足首骨折は、関節内果骨折でようやく全荷重が許され、歩行訓練中だ。
 この手足骨折のリハビリにも、スポーツリハビリができる病院への転院を所属のサンプレイトレーニングセンターの宮畑会長が強く勧めてくださった。スポーツ整形外科の紙谷医師の居られる東京新宿メディカルセンターで、理学療法士、作業療法士含む、チームで機能回復にあたっていただき、信じられないようなスピードで回復を遂げることができた。全日本柔道オリンピック選手の専属ドクターでもある紙谷医師はじめとする医療リハビリチームの皆さんの素晴らしさを実感したところでもあった。

 こうして、この1年、あまりにもいろいろなことがあり過ぎたのだが、これもすべて、再誕への序章。

 新年は、年男の還暦。真の再誕へ向けて、再びいただいた命を賭して、勝負する。少し、だけの無理をして!(笑)
皆様、1年間お世話になりました。本当にありがとうございました。良いお年をお迎えください。

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馬淵澄夫
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