復元計画に影響しない範囲で現天守閣の開場を

1945年(昭和20年)5月14日の朝、B29爆撃機が名古屋市北部に無数の焼夷弾を投下。1時間以上に及ぶ爆撃で名古屋城天守閣や本丸御殿などが焼失した。当時、東南隅櫓、西南隅櫓、本丸表二之門、二之丸の二之丸東二之門、二之丸大手二之門、御深井丸の西北隅櫓の6棟は辛うじて戦災を免れた。

名古屋城再建を願う声が市民から高まり、1955年(昭和30年)に名古屋市は名古屋城再建準備委員会を立ち上げ、地質調査や費用捻出を検討し始める。再建にあたっては、市民をはじめ、国内外から多くの募金が寄せられた。こうして1957年(昭和32年)、天守閣再建に着工。1959年(昭和34年)、名古屋市政の節目でもある市政70周年記念事業として、大天守・小天守・正門(榎多門)が鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された。

再建後、59年が経過した2018(平成30年)年5月7日、河村市長の指示により名古屋城天守閣の入場は禁止となった。「天守閣は耐震性が低い」というのがその理由とされたが、当時の河村市長の思いは「入場できないような天守閣なら早くつぶして建て替えろ」といった天守閣復元機運を高めるためのものだったと関係者は見ている。

一方、天守閣の木造復元計画を進める名古屋市は2016年(平成28年)3月29日、設計、施工を一体的に担う事業者に竹中工務店を選んだ。同社の提案によると総工費は市が目安としていた270億~400億円を上回る約470億~500億円。完成時期は東京五輪・パラリンピック前の2020年7月とした。当初の予定であれば、3年前には天守閣は復元されていたはずだ。

しかし、文化庁から要求されている「バリアフリー設備」「天守を支える土台の構造」「石垣の保全」の三つの重要課題に対する調査や検討、調整はなかなか進んでいない。とりわけ石垣の保全では、石垣の石一つひとつに関する膨大な調査や検討が必要であり、相当長期にわたる調査が必要となるが、ささっと調査を済ませてほしい市長、副市長は、調査の遅れの責任を障害者や議会、担当職員に責任転嫁するなど課題解決の遅れへのいら立ちが目立つようになってきた。

その中で起きたのが障害者に対する市民討論会での「差別発言」だろう。ころころ変わる市トップの方針との食い違いに苦悩する職員、この夏に開催予定の文化庁文化審議会に間に合わせようと無理な日程を強要され、その結果、準備不足の中での市民討論会の開催など、起こるべくして起こった事件が障害者の差別発言事件。その後の市の調査で、市トップの強引な手法に担当職員が苦しみ葛藤する姿が浮き彫りになっている。まさに、今世間をさわがせているビッグモーターと全く同じ構図だ。

さて、名古屋城の入場者数は新型コロナの影響から徐々に立ち直りつつある。

■ 名古屋城の入場者数コロナ前コロナ後比較
平成31年3月 23万8,000人
平成31年4月 28万3,000人

令和5年3月 25万3,000人
令和5年4月 19万2,000人

現天守閣が閉鎖され、本年5月7日で満5年を迎えた。この間、各方面からもう一度天守閣を開けることができないかといった要望が出されている。

「バリアフリー設備」「天守を支える土台の構造」「石垣の保全」の三つの重要課題に対する調査や検討、調整にはまだ多くの時間を要することが想定されている。そこで、復元計画に影響しない範囲で、もう一度、名古屋城天守閣を開場し、市民の皆様やインバウンドの方々に「期間限定」でご覧いただくことができないかと考えている。名古屋の観光が日本各地からまたアジアからも大きく注目を集める可能性があり、また、復元に向けた機運を高める役割も期待され、ぜひ検討するべきだと考える。名古屋市は私の提案に対して、「耐震性が...」と難色を示しているが、最低限の補強を施したうえで、公開できないものだろうか。ねえ市長さん、どう?
PR
横井利明
PR
minami758をフォローする
政治家ブログまとめ