石破 茂 です。
昨9日は、昭和20年、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して我が国に宣戦を布告して満州国に侵攻した日です。多くの民間人を含む日本人が死傷し、約57万5千人が抑留され、5万8千人が死亡したとされています。
昨日朝からの報道をすべて見たり聞いたりしたわけでは勿論ありませんが、長崎原爆の日はどのメディアも報道していたのに対し、この日はソ連が日本に攻め込んだ日であることを報道したメディアはなかったのではないでしょうか。反ロ感情を徒に煽るつもりはありませんが、ウクライナの情勢を踏まえて今後の日ロ関係を論ずる際に、近現代史を深く学ぶことの必要性を改めて痛感させられます。
なお、満州国とは何であったのかを学ぶにあたり、満州からの引揚者であった故・なかにし礼氏の「赤い月」「夜の歌」などの一連の著作はとても有益なものと思います。「われ先に逃げたのはふんぞり返っていた軍人たちだった」「国家は国民を捨て、裏切ることがある」との言葉は、実際にこの過酷で悲惨な体験をした人でなければ語れないものであり、今を生きる我々は粛然とこれに耳を傾けなくてはなりません。
「日本国憲法は最高の芸術作品であり、絶対に変えてはならない」とされた同氏の主張は私とは相容れないものでしたが、その考えが観念論や政治的ポーズではないだけに、一度お話を伺ってみたかったことでした。最晩年、ある雑誌を通じて対談のお申し出を頂いていたのですが、体調を崩されて実現が叶わなかったことが残念でなりません。
朝鮮・平壌からの引揚者である五木寛之氏も同様の体験をされたのですが、それを描かれた小説は無かったように思います(わずかに1968年の「恋歌」に描かれていたかと記憶します)。「わが引揚港からニライカナイへ」(筑摩書房・2014年)というエッセイは引き揚げが主題のひとつのようなので、夏休みに是非読んでみたいと思っております。
この夏は少しだけお休みが取れそうですが、このような機会でなければ読めない本をせめて数冊だけでも読みたいものだと思っております。遠大な計画を立ててもいつも計画倒れで、高校生の頃に読んだ柏原兵三の短編「短い夏」(1971年・文春文庫)の末尾の「計画したことの何分の一もこなせないまま、僕は秋の中にいた」という一節を思い出すのもいつものことですが。
この夏、自民党議員の行動が様々に報道されております。党や国会の委員会の海外視察や研修には、私も当選期数の若い頃によく参加したものですが、編成される団によって随分と内容が異なっていたように記憶しています。
すべての時間を公的なものに充てていたのかと問われると自信があるわけではありませんが、平成2年、当選2回生の頃、前年に総理を退任された竹下登先生が日仏議連の会長に就かれ、大統領はじめフランス要人との会談のために渡仏される際、随行させて頂いた時のことは強烈に印象に残っています。飛行機が成田を飛び立って水平飛行に移ったあたりで竹下先生の席に呼ばれ、「お前さんはフランスで何を勉強したいのか?」と訊ねられました。「フランスが核兵器を保有している理由について学びたい」旨お答えしたところ、「お前などでは無理だろうが、竹下さんがお願いすれば誰かしかるべき人が会ってくれるだろう」と仰り、実際にフランス国防省の責任者(たしか後に外相となったシュベルマン氏であったかと思います)との会合をセットしてくださいました。渡航費用等はおそらく議員連盟の積立金や竹下先生のポケットマネーで賄われていたのだと思いますが、「何を勉強したいのか」を数名の随行議員のすべてに訊ねておられたのを見て、本当に偉い方とはこういうものだと感銘を深くしたことでした。
議員たる者、その言動に自重自戒しつつ、自己研鑽に努めなくてはならない、と改めて思っております。
地元・鳥取ではあちらこちらで久しぶりの夏祭りや花火大会が開催され、コロナ禍で中止されていた三年間の鬱憤を晴らすかのようにどこもかなりの賑わいでしたが、監視員さんが足りないせいなのか、私が子供の頃は大賑わいだった海水浴場の多くが閉鎖されており、寂しい思いが致しました。「恋のバカンス」(1963年)や「天使の誘惑」(1968年)が大音量で流れていたあの昭和の光景が遠い夢のように思われます。
酷暑が続きます。皆様、ご健勝にてお過ごしくださいませ。