ジュネーブ条約など

 石破 茂 です。
 ウクライナを侵略しているロシア軍がキーウ(キエフ)近郊のブチャなどで多数の民間人を虐殺したとされる行為が、厳しい国際的な非難を浴びるのは当然です。ロシアが憲法でその法的継承国としているソ連は、同様の残虐行為を昭和20年に、千島・樺太・満州において日本の民間人に対して働いたのであり、日本こそこの今回のロシアの行為を国際社会の先頭に立って糾弾しなければなりません。
 日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本がポツダム宣言受諾表明した後も武力行使を続け、民間人を虐殺し、シベリアで強制労働に服させて多くの人を死に至らしめ、今なお領土を不法占拠している様(さま)は、彼らが今行っている行為と全く同じです。日本人はウクライナ国民と共にある、と言う時には、これを決して忘れてはなりません。

 それにしても、ロシア軍の軍紀や指揮命令系統は一体どうなっているのでしょう。ジュネーブ条約(および付属議定書)に細かく示された文民保護や捕虜に対する取り扱いの規定など、全く弁えていないとしか考えられません。
 武力紛争中の非人道的な行為は、まずは停戦を達成したのちに戦争犯罪として厳正に裁かれるべきものですが、今回はロシア側にもウクライナ側にも正規国軍ではない傭兵・義勇兵・民兵などが多く参加しており、通常の国家間紛争よりも裁判はさらに複雑になると考えられます。
 ロシアに多大の借りがあるシリアからは、主に金銭目当ての傭兵が多くロシア軍の戦闘に参加していると言われていますし、一方でウクライナのゼレンスキー大統領も、「ウクライナ人は銃を持って戦え」などと国民を鼓舞し、世界中から「義勇兵」を募っています。
 ジュネーブ条約(および付属議定書)によれば、「戦闘員」には①部隊指揮官の命令による行動を取っていること、②遠方からでも認識できるような標章を付けていること(軍服など)、③公然と武器を携行していること、④その行動が国際法規を順守していること、などが求められます。戦闘員が民間人と明確に区別できる状況をできる限り作り、捕虜としての扱いや戦時国際法の適用を促すこともまた、責任ある政府の義務です。

 国際社会として、いま直ちになすべきことは「一刻も早く戦闘を停めさせ、これ以上の犠牲を出さないこと」に尽きます。情報や武器を提供し、相手を非難して憎悪を煽り、厳しい経済制裁を科しても、それで戦闘行為が終わるわけではなく、犠牲は日々増えるばかりですし、窮地に陥ったプーチン大統領が大量破壊兵器の使用を決断すれば、本当に第三次世界大戦となりかねません。
 国連総会の場は、まさしくこのために使われるべきであり、「安保理が無力だ」ということと「国連が無力だ」ということは異なるはずです。
 ウクライナの、文字通り存立を賭けた祖国防衛の戦いに心を寄せることは大切ですが、国際社会はまず犠牲者をこれ以上出さないために何ができるかを真剣に考え、努力すべきです。ロシアの行為は厳しく非難されるべきですが、まずは停戦を実現させることが先決です。日本もそのために何ができるのか、渾身の努力をしなければなりません。

 安全保障戦略の見直しに向けた自民党内の議論が進んでいます。敵地攻撃能力の保持や非核三原則の見直しの議論と共に、防衛費の対GDP比を2%と明記することの是非が今後の大きな論点となります。
 防衛庁長官や防衛大臣当時から訴えていることですが、自衛隊は今後さらに統合運用を目指すべきですし、それに合わせて防衛力整備も統合でなされるのが当然です。部分最適の総和は決して全体最適にはならず、陸・海・空の要求を足したものが防衛費の総額となるべきではありません。ドイツのシュルツ政権が防衛費の対GDP比を2%に引き上げたことは立派な判断ですが、これを可能とする財政の健全性が保たれていることもまた忘れてはなりません。想定されるオペレーション(運用)に相応しい防衛費の総額が結果として2%を超えることになったなら、それを納税者にきちんと説明する誠実さを政治は持つべきですし、その努力なくしてあたかも2%越えを自己目的化するようなことがあってはならないと考えています。

 今週新しく読んだ本の中では「日本の国益」(小原雅博著・講談社現代新書・2018年)、外交官・防衛官僚・自衛官トップクラスOBによる座談会「核兵器について、本音で話そう」(新潮新書・最新刊)からいくつかの示唆を受けました。
 OBになったので本音が話せるようになった、あるいは現役の時には所掌が違うので話せなかったことが話せるようになった、ということはままあります。しかし責任ある立場の多くの人が、その任にありながらも言うべきことを言う、という雰囲気を作るのもまた政治の責任ですし、自分自身の責任も痛感しています。

 昨7日、漫画家の藤子不二雄A(安孫子素雄)氏の逝去が報ぜられました。週刊少年サンデーに連載された「オバケのQ太郎」(1964年~)は大好きで、赤塚不二夫氏の「おそ松くん」「もーれつア太郎」、横山光輝氏の「伊賀の影丸」「仮面の忍者赤影」、小沢さとる氏の「サブマリン707」「青の6号」などと共に、小学生時代に夢中で読んだものでした。あまりヒットはしませんでしたが、「21エモン」(1968年~)も、夢があってとても好きでした。同世代の方で共感してくださる方もおられることかと思います。御霊の安らかならんことをお祈り致します。

 週末は9日土曜日に春名哲夫兵庫県議会議員の「兵庫・西播磨地域創生県政報告会」で時局講演を致します(午後1時半・山崎文化会館・兵庫県宍粟市山崎町)。
 今月は久しぶりに講演が多く入っており、医療・福祉などをテーマとするものもあり、日頃の勉強不足を少しでも補うべく、10日日曜日はその準備に充てたいと思っています。

 安全保障や憲法の話は難しくて一般の人にはわからない、などという国会議員の方がたまにおられるようですが、それは世論を喚起すべき立場として自己否定にも等しく、主権者である国民を愚弄した発言だととられかねません。平素、「日本人は素晴らしい、ニッポンはすごい」などと口にしている方々の中にそういった傾向が強く見られるのはどういうわけなのか、私にはよくわかりません。
 今回のロシアのウクライナ侵略で、日本国民も安全保障に大きな関心を持つと共に、言いようのない不安を抱くに至っていますが、この機に便乗するような感情論を振り撒いたり、本質論を避けたいい加減な説明をしたりすることがあってはなりません。

 今週の都心は桜が満開となり、まさしく桜花爛漫の趣でした。今年もお花見を楽しむことは出来ませんでしたが、この季節、多少なりとも気分を味わいたくて桜を主題とする小説を読んだり、音楽を聴いたりすることが習わしとなっています。
 渡辺淳一の「桜の樹の下で」(新潮文庫)は華やかで哀しい佳作ですし、坂口安吾の代表作の一つ「桜の森の満開の下」(講談社文芸文庫)は曰く言い難い不気味さに満ちた短編です。
 キャンディーズの「春一番」、柏原芳恵の「春なのに」、松任谷由実の「春よ、来い」などとは違ってあまりメジャーな曲ではないのですが、荒井(松任谷)由実の「花紀行」(1975〔昭和50〕年・「コバルトアワー」収録)、「花びらの舞う坂道」(1985〔昭和60年〕・麗美の「PANSY」収録)の2曲はとても好きでした。今これらを聴いていると、時空を超えて一気に半世紀前(!)に戻るようで、とても不思議な気分が致します。
 皆様、ご健勝にてお過ごしくださいませ。

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石破茂
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