10月7日、イスラム組織ハマスがガザからイスラエルを攻撃し、兵士や市民を殺害したり、拉致したりした。 イスラエルは、戦争状態だと宣言し、報復爆撃を行い、双方で死者が6千人を超えるという大惨事となっている。 パレスチナ問題の歴史的経緯を振り返ってみよう。 第一次世界大戦のとき、イギリスは対戦国ドイツの同盟国オスマントルコを後方から攪乱するために、アラブ人の力を借りた。見返りに、戦後にアラブに独立を認めるとしたのである。この協定は、イギリスの中東担当弁務官マクマホンとメッカの太守であるフセインの間で、1915年7月に交わされ、「フセイン・マクマホン協定(書簡)」と呼ばれている。この約束に基づいて、アラブの反乱を指導したのが、映画などで有名な「アラビアのロレンス」である。 フセインは1916年にヒジャーズ王国を建国し、1918年にはフセインの子であるファイサルがシリアの独立を宣言した。 しかし、イギリスは二枚舌、三枚舌外交を展開した。1916年、三国協商を結んでいたイギリス、フランス、ロシアの三国は、戦後にオスマン帝国を分割して管理するという秘密協定を結んだ。その具体的内容は、イギリスがイラクとシリア南部、フランスがシリア北部とキリキア(小アジア東南部)、ロシアはコーカサスに接する小アジア北部を領有し、パレスチナは国際管理するというものであった。ロシアは、1917年のボルシェヴィキ革命によって秘密協続きをみる『著作権保護のため、記事の一部のみ表示されております。』