ヒトラーはどのように「退廃芸術」を弾圧したか:「表現の不自由展・その後」展を考える

ナチス政権のゲッベルス宣伝大臣は、映画や芸術にも厳しい監視の目を走らせました。1937年7月には、「大ドイツ芸術展」と「退廃芸術展」とを同時に催しますが、前衛的な絵画は退廃芸術として排除されます。若い頃に画家になる夢を抱いていたヒトラーは、前衛的な絵画を嫌っていましたので、これは総統の思いを体現した展覧会でもあったのです。 ヒトラーが他の独裁者と違うのは、画家にも建築家にもなれずに挫折しただけに、絵画や建築に、尋常ではない興味を示したことです。  伝統的な写実主義やロマン主義の宗教画や風景画を愛したヒトラーはモダニズム芸術を目の敵にします。ピカソやブラックのキュビズム、フォーヴィスム、抽象主義、印象派などは芸術の名に値しないと反発します。  ミュンヘンでは、ヒトラーの指示で「ドイツ芸術の家(Haus der Deutschen Kunst)」が建設されており、1937年7月18日に開館式が行われることになりました。 開会式の日に、「大ドイツ芸術展」がオープンし、ナチスが認める作品が一堂に集められました。ところが、翌日には、近くのミュンヘン大学附属考古学研究所の2階で「退廃美術展」が同時に開催されたのです。こちらのほうは、極秘裏に準備されていたようです。「作品はわずかの部屋にぎっしりとつめこまれ、できるだけ無意味でばかげたものにみえるように陳列され続きをみる

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