憲法は「不磨の大典」「宗教の聖典」ではなく、我々が議論して変えられるものという共通理解にはたどり着きたい

こんばんは、音喜多駿(参議院議員 / 東京都選出)です。

本日5月3日は憲法記念日です。各党から談話が出され、コロナ禍で様々な課題に直面していることもあって、例年にも増して活発な意見が交わされた印象です。

左傾化が進んだ立憲民主党は、もちろん護憲の論陣を張っています。枝野幸男代表自身は、かつては改憲議論にも前向きだった時期があるのですが、組む相手によってこうなるわけですね…。

自民党議員からは、緊急事態条項も含めて積極的な意見が相次ぎます。

各党の改憲に対するスタンスなどをまとめたサイトがありますので、ぜひ明日以降も皆さまにご注目いただき、「私たちが決める」憲法改正について思いを巡らせていただければ幸いです。

さて、そんな中でひときわ話題になっていたこの発言について少しだけ。

2019年に立憲民主党から参議院選挙に挑戦された方ですが、非常に思い切った・振り切った発言です。

「憲法に指一本触れさせたくないと思っている人たちは、宗教の聖典か何かだと思っているのではないか?」

というのは、いわゆる改憲派から出される護憲派への批判の一つ。それゆえさすがに護憲派を自称する方の中でも、ここまで踏み込んだ発言をされる方は少なかったわけです。

もちろん憲法に対する価値観・思想信条は自由ではありますが、政治家としてこの護憲ロジックは筋が悪いと思います。

言うまでもなく憲法は、国民自身が定める国の最高法規。一方で宗教の聖典は、神や預言者から与えられた絶対的権威。

「聖典」は人々(信者)が変えてはならないものですが、「憲法」は私たちが議論し、時代に合わせて変えていくことができるものです。

それを否定し、宗教の聖典と同一視をするのであれば、それは民主主義を否定することにもなりかねません。

改憲する・しないについては大いに議論をすれば良いものの、このスタート地点については、せめて認識・目線を合わせていきたいと改めて感じるばかりです。

動画でも解説しました。

それでは、また明日。

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