アジア・太平洋戦争開戦80年にあたり「戦死者の死に場所を教えられなかった国」
アジア・太平洋戦争開戦80年にあたり「戦死者の死に場所を教えられなかった国」
本日12月8日は、圧倒的な経済力・軍事力・資金・資源の差が明確な米国へ奇襲攻撃をかけ、日本のみならずアジア諸国へも甚大なる被害を及ぼしたアジア・太平洋戦争の開戦から、80年となります。
明治維新後、「欧米列強」に負けじと近代国家形成を急いだあまり、坂道を転がるように中央集権官僚主義から軍国主義へ傾き、日本国民のみならずアジア諸国へも致命的な傷跡を残すことになりました。
今また、世界は米中露対立構造が深刻化し、覇権主義の暗雲が立ち込めております。
唯一の被爆国でありながら、戦争をおこすこともなく驚異的な高度成長を遂げた唯一無二の先進国日本の果たす役割は大きいと痛感しております。
ゆえに二度と国民の自由が奪われるような日本、地域社会とならないため、地域政党自由を守る会を設立いたしました。
我々は、自由主義、民主主義、市場主義、地域主義、個人主義を基調とした、自由・自主・自律の精神のもと、国民の選択の自由、政府からの自由、内心の自由を守り、人々がのびのびと個性を活かすことのできる社会の実現を目指す、自立した国民が結集して組織する地域政党です。
そして、人を、家族を、郷土を、日本を、地球を愛するがゆえに、国・地方を問わず、政治・政府に意見を述べ、提言し、批判することができる仲間が集い、助け合い、行動をしていまいることを改めてお誓い申し上げます。
【父の足跡から太平洋戦争と向き合う】
先週私は、東京・岐阜空襲を経験した亡父が早大生の頃、学徒動員で赴いた岐阜県各務原市へ個人視察に行ってまいりました。
現在私の次男は大学生です。父から聞いた岐阜での体験をたどり、同じ年頃の19歳だった父が見た風景から戦時を偲ぶ長年の2つの強い思いがありました。
一つ目は「岐阜空襲」に、なぜ父が遭遇したかということです。
長良川にかかる忠節橋をめがけ河原まで逃げ、隣にいた高齢女性に焼夷弾があたって亡くなったこと、重度のやけどを負った赤子を抱いた若い母親が「学生さん、助けて下さい!」と懇願されても「オロナイン軟膏」を渡すことしかできなかったこと、夥しい死者で河原が埋まったことを折につけ聞いておりました。
▲岐阜城から望む長良川・忠節橋
そして、岐阜市平和資料館を訪ね、グーグルアース並みの正確な航空写真で岐阜空襲が計画的に行われ、それ以前の建物疎開に学徒たちも駆り出されていたことを知ることになりました。
父はその作業の最中に空襲に見舞われたとわかり、各務原市にいたはずの父がなぜ岐阜市にいたのか、私の長年の謎が解けたのです。
▲空襲を経験しその後県立高教師となった篠崎先生から説明を受ける
もう一つの目的は、父が各務原飛行場に隣接していた、川崎航空機岐阜工場で勤労奉仕で製造にかかわっていた土井武夫氏設計の三式戦闘機「飛燕」の実物を見ることでした。
物資がない時代でも工具には恵まれている環境で、自作のバットとミット、ボールを作って休み時間に仲間たちと「野球」に興じても、軍人・川崎工場の職員は見て見ぬふりをしくれていたこと、ただ、「飛燕」に早稲田大学の「W」を仲間が刻印してしまった際は目が明かなくなるほど殴られたエピソードを愉快そうに父は語ったものです。
念願叶い、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に現存する世界唯一の「飛燕」を目の前にし、液冷エンジンのため先端が細い、その優美な姿に圧倒されました。
日本国内で最も長い歴史を持つ岐阜飛行場からは、名古屋の三菱工場から届くゼロ戦も多数飛び立っていったといいます。
飛び立つ直前、自分より年少の弟のようなパイロットの盃を持つ手が震えていて、お酒がこぼおちたことに胸が痛んだことも父は話していました。
この秀麗な戦闘機製造を勤労奉仕した学徒、操縦して若い命を散らしていった若年兵。
戦時に青春時代を過ごした若者が、確かにここにいたこということを体感した視察となりました。
【お姐総括!】
▲「映画 サクラ花 桜花最期の特攻」画監督松村克弥(実兄)と母とお姐
タイトル副題の「戦死者の死に場所を教えられなかった国」というのは、それでも日本人は「戦争」を選んだ(加藤洋子氏著)中の5章「太平洋戦争 戦死者の死に場所を教えられなかった国」から引用させていただいております。
戦地に赴いた息子、夫たちの妻や母といった多数の家族が、どこで終焉を迎えたかわからない悲惨な戦争であったことがこの言葉に集約されているからです。
各務原飛行場から飛び立った若者たち、世界中の命を落とした兵士達の数だけお腹を痛めて産んだ母親たちがいました。
母親でもある地方議員としてただ、悲しみに浸るのではなく、戦死者の死に場所すらわからないような愚かな戦争を日本において二度と繰り返さない政治を地方議会から、忖度せず、妥協せず、長いものにまかれず、たった一人でも翼賛体制と闘って動かしたい。
一人では何もできないという人がいます。
でも、あの厳しい戦時下、目の前の助成金に目がくらんで、多くの村々が国主導の満州移民政策に乗っていく中「助成金で村民の生命にかかわる問題を容易に扱おうとする国や県のやり方を批判し、分村移民に反対」した先の見通しの効く見識の高い村長がいたと前述の本の中にはあります。
人権なくして自由なし、自由なくして平和なし!
すぐそばにいる、地域住民の命と自由を守る。これこそが地方政治家の真の使命なのですから。
それでも、日本人は「戦争」を選んだ あの授業を受けた生徒たちは今 2021.12.8 朝日
加藤洋子先生のありがたい授業を受けた生徒諸君がそれぞれ成長し活躍しているようでこれこそが未来の光ですね!
【参考:アジア・太平洋戦争勃発の経緯】
80年前の1941(昭和16)年。日本時間12月8日未明、英国領マレー半島東北端のコタ・バルに密かに接近していた日本陸軍は、現地時間午前1時30分(日本時間午前2時15分)に上陸し海岸線で英印軍と交戦を開始し(マレー作戦)、英国政府に対する宣戦布告前の奇襲によって事実上、3年8か月に及ぶ戦争に突入しました。
ほぼ時を同じくし、日本海軍航空隊も、日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)に日太平洋から発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)からハワイ・オアフ島にあるアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃(真珠湾攻撃)しました。
その結果、米国側に死者2,345名、負傷者1,347名、計3,692名の被害をもたらしました。
日本政府は、米英両国に同日付けで「開戦の詔勅」が発して、正式に宣戦布告をしています。日本時間午前4時20分(ワシントン時間12月7日午後2時20分)に、来栖三郎特命全権大使と野村吉三郎大使がコーデル・ハル国務長官に交渉打ち切りを通告し、「対米覚書」を手交しました。真珠湾攻撃後の手交となっていました。また、英国には12月8日午前7時半、ロバート・クレーギー駐日大使を外務省に呼び、ハル国務長官に手渡したのと同文の対米覚書の写しを手渡しました。さらに、オランダ同日、は日本に戦布告を発し、フランスも戦闘に加わりました。
これらの戦闘を契機に、アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)が開始され、これにより満州事変以降、東アジアで行われた侵略の戦火が太平洋全域に広がることになりました。日本人だけでも、310慢人(日本国内一般国民50万人、軍人230万人、外地での戦没・一般邦人30万人)、他国民を加えると2,000万人を超えるともいわれる、尊い命が無残に失われました。
アジア・太平洋戦争は、国内各都市への無差別空襲、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下、ソ連による中立条約を一方的に破棄しての侵攻により、数多くの民間人の犠牲を伴って、1945年8月に終結します。この戦争は日本と日本人、そして世界秩序にも現在まで大きな影響を残しています。
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