アメリカなどが、人権問題を理由に、北京五輪の外交的ボイコットを決めた。米中対立の一環であるが、政治に翻弄されるオリンピックもまた多くの矛盾を抱えている。 2020東京五輪は、コロナ禍で1年延期され、感染拡大が続く中で、様々な無理を押し通して今年の夏に開催された。 莫大な経費のかかる五輪に、開催地として手を挙げる都市は激減している。1964年の東京大会のように、経済成長のバネとして活用するという発展途上国型の五輪利用は不可能になっている。そこで、無形なものも含めてレガシー(遺産)という言葉で、大会の成果を語るようになったのである。 いずれにしても、オリンピックの孕む矛盾が大きくなっている。 そもそも五輪の主催地は都市であって国ではない。したがって、開会式や閉会式に市長が参加するのは当然であるが、首相や大統領が出席する論理的必然性はない。 ところが、五輪が「国家的大事業」になってしまっている。それは、経費の面で都市だけでは負担しきれないからであり、国は財政のみならず、東京五輪担当大臣まで新設して対応し、五輪を全面的に支援した。 主催都市のみが経費などすべて単独で負担するとしたら、五輪を招致する都市は皆無となるであろう。つまり、国ではなく都市が主催するという原則そのものが実態とは大きくかけ離れているのである。公費、つまり税金を投入せずに五輪を開催しようとすると、商業化という選択肢となる。商業化は1984年続きをみる『著作権保護のため、記事の一部のみ表示されております。』